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谷崎潤一郎『幼年時代』で読む作家の自分史

「永いあいだ、私は自分が生まれた時の光景を見たことがあると言い張っていた。」
それは一体どんな光景だったのだろうか。
「産湯を使わされた盥の淵のところである。下ろしたての爽やかな木肌の盥で,内がわから見ていると、ふちのところにほんのりと光りがさしていた。」

三島由紀夫『仮面の告白』の書き出しの部分である。幼少期の回想から少年期の自身の体験や友人との出会い、「「近江」という少年への「人生で最初に出会った恋」を回想し、「人生は舞台のようなものである」と、作家は自らの人生を小説という舞台にのせて演出していく。少年の恋はやがて女性への関心に変わる。昭和19年、「私」は友人、草野の家で妹の「園子」と出会い交際がはじまる。手紙の「お慕いしております」の一行に「私は希望をもって」園子との間に「結婚」という言葉を置いてみるのだが、「僕は園子なんか愛していはしない」ことをやがて自覚する。園子は結婚するが「私」は園子との逢瀬を持つ。だが「私」の目はレストランに居合わせた「二十二三の、粗野な、しかし浅黒い整った顔立ちの若者」に吸い寄せられ、「脇腹には太い縄目のような肉の連鎖が左右からすぼりわだかまって」いる体を見て「私は情欲に襲われ」る。「私」は園子と決別し、三島由紀夫の道を歩み始めるのである。

『仮面の告白』は、少年期から青年時代にかけての三島由紀夫の自画像としての小説であり、自伝的な下敷きはあるとしても戦後の代表的な文学作品であることは言うまでもない。三島の生の自伝に触れたい人には『私の遍歴時代―三島由紀夫のエッセイ』の中の「我が青春記」(昭和32年1月~9月『明星』連載)と「私の遍歴時代」(昭和23年4月『青年』掲載)がお勧めだ。

作家の自伝的作品では、谷崎潤一郎の『幼少時代』(新潮文庫)がある。明治19年に日本橋の蛎殻町に生まれた谷崎が昭和31年に書いた幼少期の回想記であり、古き良き東京の下町情景が描かれた貴重な記録でもある。巻頭には「日本橋、牡蠣町、茅場町界隈略図」(『中央公論』昭和33年6月号)が掲載されている。『幼少時代』は、「私の一番古い記憶」から始まり、「父と母」のこと「幼年より少年へ」から「悲しかったこと嬉しかったこと」と筆をすすめていく。明治時代の日本橋界隈の街並みと商店、水天宮の祭、小学校と友だちのことなど、幼年期を回想する。

潤一郎少年は「サンマーという英語塾」に通った。通う途中で不良少年に出会うのが怖くて塾をさぼり1円の月謝を払わず隠し持っていた。「1円札を親に隠して済し崩しに使うのは骨がおれた」と、少年の回想は弾む。『仮面の告白』は、青年期の作家の心象風景は描いてはいるが自伝ではない。「生まれたときの光景」が事実かどうか確かめようもないことだが、「芸術家としての生活が書かれていない以上、すべては完全な仮構であり、存在しえないものである。私は完全な告白のフィクションを創ろうと考えた」と、三島由紀夫は後に書いている。

『仮面の告白』(三島由紀夫)と『幼年時代』(谷崎潤一郎)を紹介したが、作家の自伝には名著がたくさんある。少年の性の目覚めを、年齢を追って書いた森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』。貧しさの中で育った少年時代の苦労を書いた『忘れ残りの記』(吉川英治)。印刷所の版下工だった若き日を回想した『半生の記』(松本清張)。祖父母、父母、兄弟、姉との家庭内の人間関係を軸に文学へ傾斜していく青年期の思い出を書いた『思ひ出』(太宰治)。故郷である渋谷の街の変遷の中で過ごした少年期を書いた『少年』(大岡昇平)。作家が66歳の時の作品で「ある自伝の試み」という副題がついている。生まれ育った渋谷の地図も挿入された「マッピング自分史」でもある。これから自分史に挑戦する人にはお勧めの1冊だ。

「自分史を書きたいが、どう書けばいいのかわからない」という質問を受けるたびに、私は「作家の自伝を読みなさい」ということにしている。小説家の文章や表現力に学ぶというよりも、作家が生きた時代と、青少年時代の生きざまや出来事を読み取ってみると、行間からその時代の生活シーンと一人の人間の心の動きが伝わってくる。作家の自伝には「あの日、あの空、あの私」が生き生きと描かれている。


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.07 2017 未分類 comment0 trackback0

「マエダが書いた」自分史『一片万情』

「まだ書いていなかったの」とか「自分史の旗振りが書かないでどうする」というような声を耳にすることが多くなった。そこで一念発起、自分の自分史を上梓した。何事もきっかけというものがある。1年前、私は傘寿を迎えた。自分史仲間の皆さんが私のために「傘寿を祝う会」を開いてくださった。そこから私の本格的な執筆が始まった。

これまで書き溜めてきた文章に加えて、自分史の構成上欠かせない項目を加筆しているうちに気が付いたら370頁という分厚い自分史となってしまった誰がそんな長い文章に付き合ってくれるのだろうか。自分史講座の講師として、自分史入門で私がお話しするのは「誰のために自分史を書くのか」という問題だ。人それぞれの人生模様。だが、「家族や親しい人に読んでもらいたいから」「子孫や次世代のために書きのこす」「広く社会に向けて発信したい」など、人それぞれだ。

『一片万情』という題名に首を傾げる方も多いだろう。辞書には出ていない私の造語だ。私は長年にわたって海岸に漂着する陶磁器の破片を拾い集めてきた。その数は正確に数えたことはないが数千個になる。古伊万里から江戸中期の染付、明治期の転写ものまで、玉石混交だ。主たる破片は、皿,鉢,椀などいわゆる生活雑器の破片である。形あるとき、その表面は山水画や唐草模様、幾何学模様であったのが波浪に流され転がり、海岸に漂着した時には、ただのかけらでしかない。私はそれを「陶礫」(とうれき)と名付けた。小さな破片の一つひとつには、彼の人生や生活の記録が刷り込まれている。そう思うと、小さな「一片」が愛おしくなる。私は,海岸で採取した小さな破片から「万情」を読み取るのである。

私の自分史の読者は孫たちだと勝手に思っている。いつの日か彼や彼女は『一片万情』の頁を繰り、著者の人生の歩みを知ることになる。日常の会話からはついぞ読み取れなかった祖父の生き様や生きてきた思いを「なるほどそうだったのか」と受けとめてくれることを期待して筆を走らせたのかもしれない。組織や集団の中で、たとえ、小さな存在であっても自分のやるべきことを全力でやり遂げる―そういう人間になってほしい。自分は「一片」であっても思いや情熱は「万情」というくらいある―という願いを込めたつもりだ。

自分史をまとめるために、過去の書きため、写真・資料・作品類などを整理しながら回想の事実関係や整合性を確かめていく作業はなかなか大変な仕事だ。自分史の講座で語るのと実際は大違い。『一片万情』が予定通り上梓できたのは、その困難な作業を分担して担当してくれた私の会社のスタッフ、小山さん、駒崎さん、松原さん、戸村さんという女性編集制作者の皆さんの「思いのこもった」努力によるものだ。そして小さな会社の社内作業としては量的な負担が大きいにもかかわらず、制作進行を支援してくれた、磯辺、高品、磯辺(公)の皆さんにも感謝しなくてはならない。まさしく、私の自分史作りを通して、ここに挙げた皆さんが『一片万情』を実践してくれたのである。ありがとうございました。

「自分とは不思議なもの。何故この世に生まれ、人と逢い、人と結ばれ、また別れ、見知らぬ他者と共に人の物語を紡いでいる?! この不思議を繙けば、人であることの、素晴らしさが見えてくる。「自分史」は、私とあなたとの「絆」だ。この1冊は友情と誇りの書でこそある」

次回作品の制作で超多忙な映画作家大林宣彦さんから、温かいそして本質を突いた帯文をいただき感激した。表紙の写真は畏友、写真家塚原琢哉さんにお願いした。陶片に何かを語らせるかのような写真が題名を輝かせてくれた。本づくりのプロ、河出岩夫さんには紙選びから造本のすべてにお世話になった。ありがとうございました。
たくさんの皆さんに支えられて「マエダが書いた自分史」は完成した。
    
   回想の扉閉づれば歳暮るる 碧舟

前田自分史
.16 2016 未分類 comment0 trackback(-)

大橋巨泉『ゲバゲバ人生』とわが『一片万情』

今年、鬼籍に入られた方々の中で、早稲田の匂いのする偉才が前後してこの世を去ったことを、私は重く受け止めた。永六輔、昭和8年、東京・浅草生まれ。大橋巨泉、昭和9年、東京・両国まれ。ちなみに、私は昭和10年、東京・蒲田の生まれ。

永さんは早稲田文学部で民俗学者宮本常一の影響を受けたという。戦後の物のない時代に永さんは鉱石ラジオを組立て、ラジオ局への投稿少年からやがて放送の世界に入っていく。今年7月7日、82歳で亡くなるまで放送メディアの中で生きぬいての「大往生」だった。その5日後、大橋巨泉さんは永さんを追うかのように鬼籍に入った。大橋さんは早稲田政経の新聞学科で学んだが、在学中にジャズや俳句の世界に没入し、ジャーナリスト志望のはずがいつしか放送タレントから芸能人の道を歩みはじめる。その八面六臂の活躍はよく知られている。

永さんには『僕は寺の子、坊主の子』という自叙伝的な著書がある。永さんは、元浅草の最尊寺の住職永忠順の息子として生まれた。永さんの人生の出発点には「なむあみだぶつ」のの世界観があり、ラジオパーソナリティとしてだけではなく、文化人としての多彩な活躍と随所での発言には、今日の日本とその未来を憂うる永さんらしい日本精神が煌めいていたように思う。

永さんには『昭和~僕の芸能私史~』というこれも自伝的著書があり、ラジオパーソナリティとしての永さんの仕事歴がよくわかる。永さんや巨泉さんが活躍し始めたころは、日本の民間放送黎明期で、昭和33年にラジオ関東(現在のラジオ日本)が開局した時期に、前田武彦(昭和4年、東京生まれ、立教大学)、永六輔、大橋巨泉らが順送りで番組作りに関わっていた。やがてTBSラジオの「パックイン・ミュージック」のパーソナリティを務め永さんは「日本国憲法全文朗読」という快挙をやってのけたこともあった。そういういきさつが私史として書いてある。

大橋巨泉さんは『ゲバゲバ人生―わが黄金の瞬間』という長編を書いている。「好きなように生きた人生」の記録だ。帯に「豪快自伝」とあるが、まさに「敗戦の記憶」から始まり、青春の彷徨を経て、パートナーと出会いと別れ、放送作家の道を歩む中での人生の「一期一会」を軸に、仕事歴、人間模様が克明に描かれている。「『お迎え』はいつだか知らないが、来るまでは寿々子と二両連結で明るく、楽しく生きていきたい」という、結びまで縦横に明るく書いてあり読みごたえはある。

巨泉さんが俳人であることは承知していたが、この自伝の中で早稲田での俳句入門の経緯を書いている。母を送る句がよかった。
「菊匂えど母の遠さかな」「心あてに母の名呼ぶや霜の声」
母の死とその前後の描写は、大橋さんの亡き母への追慕が率直に書いてあり胸を打つ。

私はいま、わが自分史『一片万情―闘う編集者人生』(河出書房刊)の最終校正を進めている最中だ。12月中には上梓する運びである。1年前の11月14日の誕生日に、自分史仲間の皆さんが私の傘寿の祝いの会を開いてくれた。私が代表を務める自分史活用推進協議会のメンバーが思い思いの形で祝意を表してくれたが、高橋厚人(ジュディプレス社長)さんが、私のために写真と音楽で構成された「映像自分史」を制作、会場で上映された。私と妻は感激で胸がいっぱいになった。そしてこの時から、私の自分史作りが始まった。

まわりの皆さんの献身的な協力と温かい励ましをいただき、私の自分史は間もなく完成する。巨泉さんの「豪快自伝」と並べるつもりは毛頭ないが、巨泉さんが「好きなように生きてきた」というなら、私には、「好きなように闘ってきた」思いはある。『ゲバゲバ人生』ほど、他人が読んで面白いはずはないが、『一片万情』の四文字は胸張って言いたい気分ではある。
.24 2016 未分類 comment0 trackback(-)

映画「健さん」に高倉健の先祖への感謝を探る

2014年11月⒑日、「日本が生んだ稀代の映画俳優」高倉健(小田剛一)さんが亡くなった。任侠映画の是非はともかく、健さんが演じたのは、寡黙だが最後のけりはきっちりつけるかつての日本の男の偶像だった。晩年は「故郷のような人」を演じ、それまで仁侠ものの俳優にそっぽを向いていた映画ファンを振り向かせた。横浜シネマリンでドキュメント映画「健さん」(監督:日比遊一)を見た。

「ブラック・レイン」のマイケル・ダグラス、「鉄道員」の降旗康男、「幸福の黄色いハンカチ」の山田洋次、悪役八名信夫、香港映画のジョン・ウーなど20数人の映画関係者、映画評論家川本三郎、写真家立木義浩、そして健さんの実妹、付き人らが語る「日本の男・高倉健」の素顔の思い出で構成された映画だ。

8月25日開催された「自分史フェスティバル2016」(江戸東京博物館会場)で「自分史ど真ん中」と題して基調講演の機会をいただいた。「自分史を書く人たち動機のど真ん中には『感謝』の心がある」というのが私の講演の結論だったが、一つの例として、私は高倉健さんの著書『あなたに褒められたくて』から、健さんの家系に関わる話として「善光寺詣で」を引用した。高倉健さんが若いころから長野・善光寺の豆撒き役を務めた背景には、健さんの先祖への「感謝」、そして終始息子の仕事をはらはらしながら見守った母への「感謝」があったのではないか、というのが私の話の骨子であった。

映画「健さん」は俳優高倉健の出演作品を軸に、その作品に何らかの形でかかわった人たちが、映画製作を通じて実感した人間高倉健を語っていく。挿入される出演映画のシーンをバックに健さんの地声でナレーションが入る。もちろんこの映画のための肉声録音ではない。音声を引用したということだろう。
「漫然と生きる男ではなく、一生懸命な男を演じたい」
「どんなに大声を出しても伝わらないものは伝わらない。むしろ言葉が少ないから伝わるものもある」
健さんらしいコメントではないか。

遠賀川は健さんの生家の近くを流れる。スクリーンに遠賀橋が写った。幼い頃の健さんが母と二人で立っている。実妹森敏子さんが兄の思い出を語る。画面は小田家の墓所を映す。「小田家のなかで、健さんは自分の先祖が北条家の家臣であり、北条一族が新田義貞に滅ぼされた時、北九州へ逃れ、のちに小田家として再興したことを書いている。
自分史を書く人の動機の根底には先祖や家族を始め、友人・知人、恩師・先輩、お世話になった人など、人生で出会った人たちへの「感謝の心」がある。その一例として、自分史ではないが、高倉健さんの『あなたに褒められたくて』を引用し、文中の「善光寺詣で」に触れた。健さんは、まだ売れなかった時代に長野の善光寺の豆撒き役を務めた。それがあるときお金のためではないことに気づいた。小田家の300年前の先祖、小田宅子が九州からはるばる善光寺詣でを欠かさなかった事実を知った。「先祖が私を善光寺に呼んでいたのだ」と健さんは思った。そして俳優として仕事を続けてこられたことを先祖に感謝した。

映画「健さん」上映中、観客の中で多分私一人が、健さんの出演映画ではなくその家系と先祖への思いという、おそらく場違いな関心からスクリーンを見ていた。先祖への感謝の思いが、「日本の男」を熱く演じた高倉健の根っこにあったのではないかというのが私の仮説である。

.31 2016 未分類 comment0 trackback0

『書かない自分史』と書かずにいられない自分史

このところ自分史への関心が急速に高まってきた。「自分史を書きたい」とか「自分史を本にするにはどうしたらいいのか」、あるいは「自分史を喋るから書きとめてほしい」という話を聴く機会が増えている。自分史を作る動機や目的は人それぞれだが、共通しているのは人生の「記憶を記録しておきたい」ということであり、「体験を語り伝えたい」気持ちではないだろうか。

「自分史」はどこかで他者と関わり合って作られる。友人、知人の死や同世代人の訃報などが自分史に火をつけることがある。親友の中村憲之助君が亡くなった。かねて病巣を抱えていたのだが、6月20日不帰の人となった。62年前の高校生時代、学校新聞の編集仲間であり、大学時代にはともに銀座でアルバイトをした経験がある。私が長い編集者人生を歩むきっかけを作ってくれた友人でもある。自分史に関わり始めた頃、中村君に自分史を書くことをすすめたことがあった。同時代体験を彼がどのように書くのか興味もあった。だがそれは果たせぬままに彼は他界してしまった。中村君の『書かなかった自分史』を、私自身の自分史の中でどのよう書けばいいのか迷っている。

そういう折に『書かない自分史』(ぴあMOOK)が上梓された。私の自分史仲間である、野見山肇、倉林奈々子という二人の優秀な自分史編集者の共著である。「新しい自分史の作り方」の提案と実例の紹介で構成されるこの本は、自分史が十人十色であり、誰でも好きなように自分史を書き、本にすることができることをわかりやすく説明している。著者の所属する自分史活用推進協議会推薦図書だけあって、寄稿者はいずれも自分史界のヴェテランだから、数ある自分史入門書のなかでも信頼が置ける1冊だ。

映画監督大林宜彦さんが「自分史は上手い下手を競うものではない。自分史はオンリーワンなのだ」と指摘したことも紹介しているが、この本を読むと、自分史の作り方はいろいろで、実に多彩な選択肢があることがよくわかる。文章を書いて本にするだけではなく、電子出版、マガジンスタイル、アルバム自分史、自分史映画と、オンリーワン自分史の形はいろいろだ。

「書かない自分史」という本書のタイトルはどのようにも解釈できる。文章を書くのが苦手な人の「語る自分史」、話し好きの高齢者からの「傾聴自分史」、俳句、短歌、写真・絵画を時系列に並べた「作品自分史」。どれも無理して長い原稿を書かなくても自分史は作れるということだ。もう一つは野見山さんの持論である「自分史に無駄な文章や冗長な文章は書かない方がいい」という考え方も「書かない自分史」に通じるものがあるのだろう。

自分史は「書いてこそ自分史」だと考えている。紙背や行間を読み取って欲しいという著者もないではないが、仮に冗長であったとしても、思いのたけを書くのが自分史ではないかと思っている。校正が進むにつれて「あれもこれも」、「あの人この人」を書き加えたい衝動に駆られる著者に、正直のところ編集者としてはとまどう場合もあるが、気持ちはよくわかる。

小沢昭一さん,野坂昭如さんに続いて永六輔さんの訃報が伝えられた。やや先輩である同世代文化人の他界に哀惜の思いが湧いてくる。都の西北の夜空に輝く昭和御三家の星の隣に我が友の星も光りはじめた。そんな思いのなかで『書かない自分史』を再読し、「自分史っていいな」と改めて思った。
自分史を書かずに去っていった親友を想うにつけ、我が自分史には、中村憲之助君のことをしっかりと書いておこう、彼が「書かなかった自分史」を、追悼の思いを込めて「書かずにいられない自分史」として書きたいと、痛切に思っているところだ。
.19 2016 未分類 comment0 trackback0
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イベント開催告知

「品川自分史塾」開催決定! 日時 10月7日(水)、14時~16時 場所 五反田文化センター 参加費 1,000円(教材、ドリンク付き) お申込み先着20名様 ■お申し込み先■ 氏名、ご連絡先(日中連絡がとれる電話番号かメールアドレス)を ご記入の上、お申し込みください。 メール jibunshi@po-ipa.co.jp FAX  03-5436-4025 お問い合わせ先 03-5436-4025

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マエダヨシヒロ

Author:マエダヨシヒロ
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昭和10年、東京生まれ。早稲田大学文学部(国文科)にて学び、電気業界新聞記者を経て、昭和36年に編集会社を設立して以来、企業広報分野の編集者、編集プロデューサーとして、パブリシティ、企業出版、広報イベント等に従事。この間、産業界各分野の企業社史、経営者自伝、自分史などを多数手がけてきた。 2009年、「自分史研究会」を設立、「マッピング自分史」を提唱。現在、東京都港区生涯学習講座「まなび屋」自分史講座講師、文京区文京アカデミー自分史講座講師、神奈川県生涯学習「プラネット」登録講師等。 自分史:『わがソフトウェア人生』(丸森賢吾自分史)、『空翔るM&A経営』(北川淳治自分史)ほか。 社史:『さらにすばらしいステージへ』、『コンピュートピアにかける橋』、『峠超えの道』など多数。

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