映像作家手塚 眞さんの『父・手塚治虫の素顔』

子どもの頃は「アトムちゃん」と呼ばれて育った。
手塚治虫さんの長男手塚 眞さんは17歳の時に作ったビデオ作品で「日本映像フェスティバル」特別賞を獲得、さすが「親の子」といわれた。
以来“ヴィジュアリスト”として実験映画、アニメ、インデペンデント映画作品を次々と発表、「ぼくは天才の息子です。でも天才じゃありません」というが、現代を代表する映像作家の一人であることは間違いない。

この本の表紙からはじまり、巻頭、本文中には父治虫さんと写っている数々の写真は掲載されている。
いずれも親子の素顔の記録であり、特に「手塚治虫とちっちゃなアーティスト」とキャプションのついた3枚のスナップからは、父と幼な子が“絵”というDNA因子でしっかり結ばれていたことが、ほのぼのと伝わってくる。

眞さんは、マンガ家の家に生まれ、もの心がついたころから天才マンガ家の創作のすべてを見てきた。
マンガと格闘し栄光の作品を生みだしながらも、時には挫折、スランプなどで苦悩する父の後ろ姿を見てきたはずだ。
父は、1968年に手塚プロを設立する。最盛期には5つのスタジオ、500人の社員を抱えていたという。

「多角経営が災いしました。最終的にこの会社は経営不振に陥り、七年ほどで倒産してしまいます。父はもちろん責任を取る形になり、家と土地を手放さければならなかったのです。憤る債権者たちを前にしても、父はマンガを描いていたそうです。」

手塚治虫作品といえば「鉄腕アトム」。
高校生時代、眞さんは同級生に「鉄腕アトムは原爆と同じだ」といわれて困惑したことがあったという。
「科学と人間の軋轢をアトムで描いた」はずなのに、時にはいわれのない「非難をぶつけられた父は、相当に辛かったのだと思います。『ぼくは原発に反対です』とはっきり表明したくらいです。」

東久留米の自宅の廊下。電気のスイッチの上には、手塚治虫さん自筆の張り紙が残されているという。
「用がすんだらかならず消すこと!」
日本中の原発が運転停止となった。この夏の電力需給が心配されているが、手塚さんが生きていたらどんな発言が聞けたことだろうか。

「眞よ。
これからきみの本当の人生が始まる。きみが遠い未来に子どもをもって、きみの生きざまを堂々と彼に伝えてほしいと願っている。」

『PHP』(1987年8月号)に書いた手塚治虫さんから、当時26歳だった「息子への手紙」の結びの言葉だ。

「父の作品とその人柄を世界に伝えるのがぼくの使命」と手塚眞さんは書いている。
父と自分の自分史を重ね合わせながら、「何よりも誇りを感じていること、それは手塚治虫の息子だということ」。
天才の息子は、胸を張ってこの本で改めて宣言している。

.14 2012 未分類 comment0 trackback1

すみだ学習ガーデンで自分史講座が始まった

墨田区の生涯学習施設「すみだ学習ガーデン」での自分史講座が始まった。
4月から6月まで3ヵ月間に6回の講座の講師を務める。
「豊かな老後のために自分史を始めよう」というこの講座には11人の墨田区民の皆さんが受講する。自分史とは何か、なぜ自分史を書くのか、自分史に何をどのように書けばいいのか、自分史から何が始まるのか…、講座では自分史作文の宿題と添削を繰り返し、最終日には簡易製本で自作自分史を手にしてもらう。まさしく自分史入門と実践である。

講座に参加した皆さんは、すでに書き始めた人、構想をまとめた人、資料を集め始めた人などいろいろだが、全員が自分史への「やる気十分」の人たちである。
私は自分史のナビゲーターとして、皆さんがそれぞれの自分史に辿りつけるようアドバイスしていく役目だ。人それぞれの人生、それぞれの自分史があっていいだろう。

Aさん、80歳。中小企業の創業者だ。
戦後2,3年の間に、A少年の両親は疎開先の瀬戸内海の町で前後して病気で亡くなる。
陸軍少年兵を志願した少年は、終戦後、職業訓練養成所に入るが独立意識が旺盛で、一人で生きていく決意を固め、養成所を脱出、大阪へ出る。
農機具、大工道具、金物の販売店の店員として働きはじめる。金物を扱っているうちに鉄屑の売り買いがあることを知る。

やがて東京へ出た少年は、屑問屋の“買い子”となる。大八車に秤を店から1日100円で借り、1000円の屑買いの資金貸し与えられる。
町へ出て「くずーい、おはらい」と声を出して新聞紙、空き瓶、ぼろきれなどを買い集める。今でいう廃品回収業である。
鉄屑なら1貫目15円で買い入れ問屋に20円で買い取ってもらう。朝、店から貸与された1000円を差し引いた後の差額が儲けとなる。
多感な19歳の青年にとって「くずーい、おはらい」の毎日は、おそらく屈辱と明日への希望のないまぜの日々だったに違いない。

Aさんの自分史をここまで聴いて、私は他人の人生の傾聴の重さを感じながらも「人に歴史あり」、「人生はドラマだ」という言葉を実感していた。
Aさんは鉄屑回収業を基盤に事業を拡張、今ではリサイクル事業を確立し、その経営を子息にバトンタッチし、悠々の人生を楽しみ、自分史を書く気持ちになった。

Bさん、82歳の場合。Bさんの戦後は旅館の下足番から始まった。
浜松出身のBさんは軍隊に取られたが外地へ出ることなく終戦を迎え、縁故を頼って上京する。
東京・大森に「悟空林」という割烹旅館があった(終戦後の一時期、進駐軍の慰安施設となっていた)。Bさんはこの店の下足番の仕事にありついた。
汚れた靴を手製の靴墨できれいに磨くサービスを自発的にやった。オーナーに認められ
た。
オーナーの小林清さんはやがて「東京温泉」を始める。Bさんは「客あしらいがうまい」ということから浴客の背中を流す「三助」を命じられ、ますます小林さんの眼鏡に叶う人材として伸びていく。
小林さんが日本で最初のキャバレー「ショーボート」を銀座8丁目に開いた時、そこのボーイ長に抜擢される。こうした戦後混乱期に東京で働いたBさんは、思うところあって故郷の浜松に戻り、弁当屋、総菜屋で身を起こし、宅配惣菜の全国チェーンを立ち上げ事業の成功者となった。

Bさんの自分史を傾聴した後、書架から1冊の本を20年ぶりに取りだした。
『昭和キャバレー秘史』(1994年、河出書房新社)。
「キャバレー太郎」で知られた福富太郎さんが書いたこの本は、戦後16歳から銀座で働きはじめ「ハリウッド」チェーンの展開で成功した太郎さんの自伝でもあり、キャバレー、アルサロ風俗の変遷を丁寧に書いている。

「昭和23年には銀座8丁目外濠通り、現在のリクルートビルあたりに「ショウボート」を開店、二、三階がサロンで、やはり船に縁のある造りだった。早くもノーチップ制を採用し、注目された。」と福富さんは書いている。

自分史は、人生の記譜には違いないが、同時にその人の生きた時代と体験した世界や業界の記録である。まさに歴史は市民が作るものであることを教えてくれる。
.07 2012 未分類 comment0 trackback1

日本映画史の一断面、自伝『女優 岡田真理子』


桜満開の日、杉 葉子さんにお目にかかった。
元女優の杉さんは、現在ロスアンゼルスにお住まいで、桜の季節には必ず日本へ里帰りというか、東宝の俳優さんたちの同窓会のような「砧会」に出席されるため来日する。

杉さんは、3月27日に開かれた「高峰秀子さんを偲ぶ会」に出席された。
「宝田 明、香川京子、司葉子、八千草薫、小山明子といった、昔のお仲間、私よりもお若い方が一堂に会した」そうだ。

杉 葉子さんといえば、昭和24年、映画「青い山脈」でデビュー、「浮雲 」「めし」など多くの作品に出演、昭和36年には結婚のため映画界から引退された。その後アメリカで生活、一貫して映画を通じての日米文化交流に貢献してこられ、いまやアメリカにおけるKATUDOU SHASHINの語り部的な存在だ。

杉さんの自分史の聞き書きを続けているのだが、今回は「思い出に残る出演作品」を伺うことができた。
東宝初のカラー映画「花の中の娘たち」(山本嘉次郎監督)では、岡田茉莉子さんと共演したそうだ。
杉さんは東宝ニューフェース2期生、岡田さんは3期生だった

岡田茉莉子さんは自伝『女優 岡田茉莉子』の中で初出演の「青春会議」(杉江敏男監督)で「私でない私を演じた私」を回想して書いているが、この時の共演者が杉さんだった。
岡田さんは、1933年生まれ。夭折した男優岡田時彦の遺児で、母は宝塚歌劇の団員だった。
母の手一つで育てられた岡田さんだが、少女時代に偶然父親の出演した映画「滝の白糸」を見たことからそれまで母が語らなかった父親のことを知る。
東宝の女優になってからは「岡田時彦の娘」が付いて回ったという。

成瀬巳喜男、小津安二郎、木下恵介、渋谷実、中村登など日本映画史を飾る優れた監督のもとで“岡田時彦の娘”は自我の強い女優岡田茉莉子として育っていく。
優れた映画監督吉田喜重の名作「秋津温泉」に出演、やがて監督と女優は結婚に至る。

2008年春、吉田監督は「あなた自身の自伝を書くべきだ」と妻にいう。
2年前、吉田監督は『吉田喜重 変貌の倫理』と題して自らの自伝的アンソロジーを出版していた。

「自伝を書くに先立って半世紀にわたる女優としての記録、岡田茉莉子の出演データを集めることに努めた。
その結果、映画は156作品、舞台の公演は68作品、そしてテレビドラマは180本以上という数字が確認された。」

「自伝は一生に一度かぎりの仕事。
私は私のすべてをこの自伝に書きしるした。
これから新たに起こることは、私はまだ知らない。そうした未知の時間をのぞけば、私はなにも思いのこすことなく、すべてを語ったつもりである。」

岡田さんは2年半をかけて自伝を書きあげたという。
人生の軌跡を辿りながら、日本映画の発展を支えた監督たちと出会いと出演した作品をていねいに書いている。
映画の中で演じた役を「そのとき私は」と一人称で書き、作品への思いの深さを表現している。

「この自伝は、岡田茉莉子について語るとともに、映画への愛を語る、自伝でもあってほしいと、私は願っている。」

自分史は、その人を育んだ世界、専門の領域、所属する業界の貴重な記録でもある。
.23 2012 未分類 comment0 trackback1

久里洋二さんが書いたツイート自分史

漫画の久里洋二さんがツィッターで自分史を書いた

久里洋二さんは恐らく現役最高齢のアニメーション作家ではないだろうか。
昭和3年生まれ、84歳。
「年を感じさせない」とは久里さんのような人のことをいう。
毎年のように個展を開き、精力的に作品を発表し続けている。

久里さんとの出会いは2000年11月、デザイナーの長岡貞夫さんとタグを組んで「引出し21展」をプロデュースした時だ。漫画とアニメで知られる久里さんだが、造形作品でも非常にユニークな作品があることを知って、
「引出し展」への特別出品を依頼した。
久里さん独得の豊満でエロチシズムあふれる女性のシルエットの引出し付きの収納箱であった。
麹町のアトリエで打ち合わせをした日のことが今も目に浮かぶ。

その久里さんが『ボクのつぶやき自伝 @yojikuri』(新潮社)という本を書いた。
「本を書いた」というより、自らのツイートを300ほどならべ、「人生なんて140字あれば書けるもんだ」とばかり、自分史に仕立ててしまったのだ。

久里さんのツイート集は、「アニメーター久里洋二」「交友録」「青春期」「身辺雑記」「東日本大震災」の5つのくくりにまとめてある。
ツイートは140字が原則だが、久里さん独得の軽妙洒脱な短文のなかで、漫画に明け暮れた青春を回想し、多彩な交友との思い出を次々と想起していく。
久里さんはツィッターで東日本大震災を悲しむ。

「アニメーションという言葉を唱えたのは、真鍋博と柳原良平と僕の三人。昔は『漫画映画』といっていた。」
「鉄腕アトムがアニメになったきっかけの一つは、実は、手塚治虫君と僕だけの、ある出来事。しばらく、このことを気ままにつぶやいていこうかな。真鍋博、柳原良平と僕で結成していた『アニメ三人の会』を、手塚君が見に来た時に始まる。一九六○年代の頃かな。」

「忘れられたアート・アニメ。一生懸命、情熱を持って進めてきたのだけど、僕はアート・アニメに火をつけたものの、シュンと消えてしまったマッチ棒に過ぎなかったのかもしれな。何でも最初にやる人より、二番煎じの方が人気がでるもんだな。まあ、いいか。」
「みんな、アニメ振興のために頑張ってくれたな。これならアート・アニメーションの時代が来ると信じていたが、手塚君にアトムのアニメ化を勧めたことが失敗だった。アート・アニメは消えた。」

久里さんはツイートで、自分史の断面をつぶやいてみせる。手塚治虫さんと出会った若き日の手塚さんの一言、「僕は子供のアニメを作る。だけど久里君は作らないでくれないか」。久里さんはTV番組用にと「色っぽいアニメを子供向けに描いていくつもり」だった。ところが局側からクレームがついてギャフンとなり、「アニメ三人の会」は解散となる。

久里さんのツイート自伝は、そのまま日本アニメ史の大事な証言となっている。

久里さんは大人のためのナンセンス・アニメーションの分野を開拓、「11PM」、「ひょっこりひょうたん島」などで発表、ヴェネツィア国際映画祭、アヌシー国際アニメーション映画祭などの賞を次々と獲得していく。
2011年、久里さんは旭日小綬章を受章、出身地の福井県鯖江市には「GALLARY K」という久里さんの作品を集めた美術館もできた。

久里さんは、日本のアニメーションのパイオニアだ。

「あああ、なんで涙が出てくるの。すべて僕が昔に体験したのと同じ出来事が、目の前に現れている。ああ悲しいな、悲しい。みんな助かりますように。幸せだった時代は、これでおわりなの?これからも、みんな幸せになってもらいたいのに」

1948年6月の福井大地震を体験している久里さんの日本大震災発生当時のツイ―トである。
.12 2012 未分類 comment0 trackback0

東京大空襲の未公開写真が発見された

東京大空襲の未公開写真のネガが大量に発見されたというニュースが報道された。
昭和19年11月から約6カ月間の東京の空襲被災状況を記録した540枚の写真だ。
戦時中、陸軍の広報誌『FRONT』を発行していた東方社が陸軍参謀本部の指示により撮影したものだという。太平洋戦争末期、昭和20年3月10日は「東京大空襲の日」として記憶されている。この日、10万の東京都民がB‐29の投下した焼夷弾39万9000発によって虐殺されたことは歴史の事実だ。

3月18日のNHKスペシャル「東京大空襲の真実」を見た。
当時の米軍爆撃隊員への取材で東京大空襲が「計画的な無差別爆撃」であったことが明白に証言された。「標的が判然としない場合は“その辺に落とした”んだ」という高齢の生き残り隊員の言葉が衝撃的だった。“その辺”の10万人が命を奪われたのである。

70代の人たちが太平洋戦争を語る場合、「空襲体験者」や「疎開体験者」と、不幸な体験を免れた人との間には会話の密度が異なるのはやむをえないことかもしれない。

私の場合は、福井市に縁故疎開し、昭和20年7月19日夜、空襲に遭遇した。
自分史を読む機会が多いのだが、同世代の人の自分史を読んで気になるのは、「空襲体験」の記述である。

『東京大森海岸 ぼくの戦争』(小関智弘さん、1933年生まれ)の場合。
大森生まれの小関さんは入新井第5小学校の学童だったが健康上の理由で疎開生活は1週間しか体験しなかったそうだ。
東京では、昭和19年6月「帝都学童集団疎開実施要領」が公布され、私もその一人だったが、東京の学童は集団疎開か縁故疎開かの選択を迫られた。小関さんは集団疎開組だったが「背中のひどい田虫のため医師が伝染する恐れがある判断した」ため、皮膚科専門病院に通うことになり集団からはずされたというわけだ。

昭和20年5月29日、京浜地区は空襲で焼きつくされた。

「敵機襲来っ。あたりはすでに闇に包まれたように暗くなっていた。雲と思っていたのが煙だった。爆音とともに雨が降ってきたようだと空を見上げた親父が『雨じゃないぞ石油だぞ』と叫んだ。
そして焼夷弾がものすごい音と共にわが家の屋根を突き破った」(小関さん)

評論家赤塚行雄さんは『昭和二十年の青空―横浜の空襲、そして占領の街』(有隣堂)を書いている。赤塚さんは横浜生まれで、戦時中は県立横浜二中の生徒だったが、勤労動員により昭和電工に勤務していた。

「その暗い空から小型焼夷弾を束ねた焼夷弾の鉄の外側の殻がズサッズサッと音を立てて目の前の畑に突き刺さる。その収束弾を結びつけていた鋼のバンドもシュルシュルと不気味な音をたてて落ちてくる。高射砲の細くなった破片も降って来る」
横浜大空襲は昭和20年5月29日午前8時すぎだった。

赤塚さんと小関さんは同じ日に、同じ体験をしたことになる。

「歴史は、未完了の過去である。しかし、せめて、あの大空襲と、その後の横浜のあわただしい敗戦直後の頃については、自分なりに、きっちりと完了形にして書き残しておきたい。そう思いつつも、浮きつつ遠くなりにけるかな」(赤塚さん)

赤塚さんの本の巻末には「炎上する横浜の中心部」(米空軍図書館蔵、横浜市史資料館提供)の写真が掲載されている。

.23 2012 未分類 comment0 trackback0
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プロフィール

Author:マエダヨシヒロ
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昭和10年、東京生まれ。早稲田大学文学部(国文科)にて学び、電気業界新聞記者を経て、昭和36年に編集会社を設立して以来、企業広報分野の編集者、編集プロデューサーとして、パブリシティ、企業出版、広報イベント等に従事。この間、産業界各分野の企業社史、経営者自伝、自分史などを多数手がけてきた。 2009年、「自分史研究会」を設立、「マッピング自分史」を提唱。現在、東京都港区生涯学習講座「まなび屋」自分史講座講師、文京区文京アカデミー自分史講座講師、神奈川県生涯学習「プラネット」登録講師等。 自分史:『わがソフトウェア人生』(丸森賢吾自分史)、『空翔るM&A経営』(北川淳治自分史)ほか。 社史:『さらにすばらしいステージへ』、『コンピュートピアにかける橋』、『峠超えの道』など多数。

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